2016年御翼3月号その4

祈りによる癒しの力 ――― ハロルド・ケーニッヒ

 

 「祈りほど、歪められたものはない。祈りは、自分の願いをかなえさせるためのものではない。積極的思考が中心ではない。繰り返し、呪文のように唱えるものでもない。物を得るためのものでもない。自販機にコインを入れて、コーラを買うようなものではないのだ。祈りは、最も重要で、最も身近にあるべきもので、最も力を与える信仰的・霊的な活動なのだ。それは、神とコミュニケーションするための手段で、神との交わりを深めるためにある。そして、神との関係を持つことで、癒しが行われるのだ」と言うのは、クリスチャン医師・ハロルド・ケーニッヒである。
 わたしたちが神と交わろうとするとき(祈る時)、自己中心ではなく、イエス様のような精神を持ち合わせているべきである。主イエスは謙遜で、仕える心を持ち、他人のために耐え忍び、他人を愛し、神に従順でいらした(ローマ12・9〜15)。
 米国では、重病のときに医師が祈ってくれたという体験を持つ人は、6%いたが、その8倍もの人たちが、医師に祈ってもらいたいと願っているという。そして、祈ってもらった人たちのうちの97%が、祈りは治癒の助けになったと答えている。『祈りによる平安と力』を著わしたトルソン牧師は、精神が体に影響を与え、祈りが精神に影響を与えるのなら、祈りは体に影響を与える、と記している。また、ストレスが免疫力を低下させることも分かってきている。

ストレスを抑制するためには
‐社会と良い関係を保つ 
‐否定的で不条理な発想をなくす
‐可能発想を実践する ‐整理された暮らし
‐飲酒・喫煙を控える ‐十分な休息
‐楽しくて過酷さを要求されない趣味を持つ
‐定期的な運動 ‐リラクゼーション
‐祈りの生活を発展させる

 これらは、クリスチャンの信仰生活・教会生活と重なるものがほとんどである。
 祈りとは、神と交わることであるが、罪が赦された者だけが、祈りによって神に近づく権利が与えられる。では、善良で義なる人だけが祈ることができるのか? そうではない。神が私たちのために備えてくださっているものを受け取るためには、神と繋がっていなければならないのだ。そして、イエス・キリストの贖いによって、私たちは祈りの中で神と出会わせていただける。それでは、神は救われた者の祈りだけを聞かれるというのだろうか。そうではない。神は全人類の父だからである。すべての人をご自分の姿に似せて創られた。但し、救われた者の祈りは、より神と親密なものとなる。なぜならば、祈りの内容、レベルが神の御心に近くなるからである。        
 毎日祈る習慣を身に着けた人たちは、神との交わりである祈りを、より心地良いものだと感じるようになる。そして、祈りはその人たちの生きる道、生活様式となるのだ。あるご婦人は、毎日祈る習慣を大切に守っていた。彼女は家族や友人から、「祈りの婦人』と呼ばれるくらいだった。そんな彼女がアルツハイマーになった。すると、家族・友人とコミュニケーションがとれなくなった。周囲に起こっていることに、まったく関心を示さないのだ。ある日、婦人は夫の運転する車で事故に遭い、脳震盪(のうしんとう)を起こし、昏睡状態に陥る。そして、夫と娘がベッドサイドにいたとき、この婦人は突然上を向いて笑みを浮かべてこう言った。「すべてが良くなる(Everything is going to be all right.)」と。そして、直ぐにまた昏睡状態に戻ったのだった。お嬢さんも夫も同じことを感じた。それは、その時の婦人の表情には、かつて祈っていたときと同じ表情をしていた、ということである。 医師 ハロルド・G・ケーニッヒ
 イエス様を受け入れ、正しく祈れる人の生涯は、そうでない人と大きく変わってくるのだ。

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